2014/12/09

カンボジア人との会話に潜むワナ:もしもピアノが弾けたならw

最近あった、とある日本人事業家Aとその取引先カンボジア人Bとのやりとりのお話。

Aさん(日本人)とBさん(カンボジア人)の取引についての話なのだが、現実の彼等の取引内容が類推できてしまうのもよろしくないので、簡単な架空事例として以下と設定しておく。
・AさんはBさんからモノを100ドルで買いたい
・BさんはAさんにモノを120ドルで売りたい

なお、実際の彼等の取引はモノの売買ではない。が、取引の中身は何かというのは今回の話の本質とは関係ないので、実際の性質が異なる架空事例でも本稿では問題はない。

というわけで、上記設定を踏まえて頂いたうえで以下;


ある日、Bさんが嬉しそうに筆者に近寄って来て
「Aさん、ワタシのモノ、120円で買ってくれることになたよ♩」
と伝えてきた。

Aさんがそのモノを120円で買うわけがない事を知っている筆者は、Aさんに
「ホントに120円で買うんですか?」
と確認。

Aさんいわく
「まさかw。 ただ『XXだったとしたら、120円で買う事も考えられるよ』とは伝えたけどね。 XXだったら、それだけで20円分の価値はあるからさ。 考えてもらう意味はあるかな、と思ってね。


抽象的なうえアルファベット記号が多い話で大変恐縮だが、端的に上記の話の骨子をまとめると、要は以下のような話である。
・Aさんは『αだったらβだよ』と伝えた(「XXだったら120円で買うよ」)。
・Bさんには『βだよ』とだけ伝わった(「120円で買うよ」)。

Aさんが最も伝えたかった『αだったら』の部分がすっぽり抜け落ちて、Bさんには最も聞きたかった『(無条件で)βだよ』という形で伝わってしまっている。
むしろAさんの本心としては『(αじゃないなら)βじゃないよ』と言っているのに。 
 
Bさんが自分の聞きたい部分だけ聞きたいように聞き取っているようにも見えるし、事実そういう側面もあったりするw
何にせよ、これ以上ない真逆な伝わり方で、実は極めて危険なミス・コミュニケーションに陥っている状況、とも言える。

実はこのパターンの認識のズレによる諸事は(トラブルに発展するケースも)結構ある。

当然、この事例のようなシンプルはパターンはレアにしても、よくよく突き詰めるとこの事例と同じ要因に辿りつくケースが多かったりする。(筆者の知る限り)

この『αだったら』部分の抜け落ちについて、Aさんは自分の英語力を嘆くかもしれないし、通訳を通していたならその通訳の不正確さ(実力不足)に逆上したかもしれない。

しかし、これはAさんもしくは通訳個人の「ツールとしての言語力(語学力)」に起因する個別偶発な話ではなく、構造的な要因により誰にでも起こりうる話である、と筆者は思っている(私見)。


筆者私見として考える、その『αだったら』の抜け落ちの真因は、Bさんが聞きたい所だけ聞き取っている我田引水な勝手解釈ではなく、Bさんにとって『αだったら』の部分が「(脳で)識別できない表現」である事だ。 

これは例えば、犬やイルカなら聞こえる超音波に近い音が、ヒトには「(耳に)聞こえない音域」であるのに近い(気がする)。



ちょっと苦い思い出に触れる話かもしれないが(読み飛ばし可w)、日本で中学・高校に通われた読者皆様であれば、英語の授業で「仮定法」という文法を習った事が(遠い記憶の彼方に)あろうかと思われる。

「もしも私があなただったら」という表現を英語にすると「If I were you」、と(何故か「was」じゃなくて「were」という形で)過去形にする、、云々、という誰もがキライだったあの英文法のお話。

現在の状況とは異なる仮定の話を言う時に、何故か英語では過去形にする。

私があなたではないのは今時点なのに、なんで過去形にするのか? 
 
って、そういえば日本語でも「もしも私があなた”だったら”」と過去形っぽい言い方をするな、、なんでだろう?

・・というような禅問答的な苦行を、日本ご出身の皆様であればおそらく一度か二度は体験したことがあるはずだ(忘却の彼方にあっても何の問題もない)。


結論を端的にいうと、上記(仮定法過去)というのは気取った先進国特有の表現で、

「今はそうじゃない」

という状況を

「もしも過去からそうだったとしたら、今もそうかもしれない(けど、実際は過去からそうじゃないし、今もそうじゃないよね)」

と遠回しに表現するこましゃくれた言い回しだ。

会話はその場を楽しませる事を是とすべき、と信じて疑わない上流階級な立ち位置の方々としては、話の相手が誰であれ、直接否定的な言葉を浴びせるなんてもっての外。 
あえて遠回しな仮定の肯定を経由して(裏を返すと)現実の否定を示唆している(かつ相手にそれを察することを要求する)、という優雅な関係醸成コミュニケーションを源流に生まれた、極めて面倒くさい表現手法である。

それを踏まえて、先ほどの事例の骨子の部分を直球な表現に言い直すと;

『αだったらβだよ(仮定)』 = 『αじゃないからβじゃないよ(現実)』

「XXだったら120円で買うよ(仮定)」=「XXでないなら、120円じゃ買わないよ(現実)」

と言っているわけだ。 

主に欧印系が頻発する「違うっしょ?」と言えばいいのに「私はそうだとは思わないが」と言い回す(結果、英文メールがムダに長くなる)アレと同類の表現である。


この類の表現は、以下の条件にあてはまる諸国民によく見られるケースである(気がする)。
(1)母国語の文法に時制(過去・現在・未来)がある
(2)身分等による階層区分があり、その階層別に遮断されたコミュニケーション手法が醸成されている
つまり、欧米日的な先進諸国である。


日本にもある例を挙げるとすれば、

「もしもピアノが弾けたなら、想いの全てを歌にして君に伝える事だろう」

とは仮定の例え話をウタっていて(確かに”弾けた”と過去形になっている、つまり仮定法過去w)、現実を直視すれば

「実際ピアノが弾けないから、想いの全てを歌にして君に伝える事なんてできないよ」

というのが身も蓋もないストレートな表現になる。

確かに前者の言い方でしか歌謡曲の名フレーズにはなりえないな、、と感じられるとすれば、それは立派な先進国の民である証だ。


翻って我らがカンボジアでは、まずそもそも(1)の条件にあてはまる「時制」がない。
正確にはあるらしいのだが、実際の口語コミュニケーションではほぼ使われない、という。

「私は昨日ごはんを食べました」

ではなく

「ワタシ、タベル、ゴハン、キノウ」

で、最後の「キノウ」によって、「タベル」が過去に行われた(食べた)事である事が間接的に規定される、という状況(らしい)。


そもそも時制(過去形)がない。 
そのうえ、それを前提にしたこましゃくれた話法も醸成されていない。

つまり、カンボジアの国民に対し、仮定法過去(もしくは過去完了)を使っても、その部分は彼等に全く認識されない(彼等の脳に響かない、届かない)のである。


そもそも「昨日」とか明確な過去を示す付随単語ナシで文法的に過去形で何か言われても「?」だし、それが「現状に対して逆説」になっているなんて更に「??」となるわけである。 言葉として耳に入ってはきても、脳がそれを認識しない。

これが『αだったらβだよ』の前半が抜け落ちて『βだよ』だけが伝わってしまう真因である(筆者の完全な私見w)

伝え手としては、『αだったらβだよ』と言いながら、本音では『αじゃないからβじゃないよ』と伝えたいのに、受け手(カンボジア人)には『・・・βだよ』と真逆に伝わってしまう、まさにカンボジア人とのトークにおける「仮定法のワナ」。


対カンボジア人的にはかなりハイリスク(ノーリターン)な言い回しとなってしまうこの仮定法。 

要な何が言いたいかというと、

「カンボジア人に何か伝える時はシンプルに」。
『αだったらβだよ』 →『(αでもないんだから)βなわけないじゃん』という直球ストレートど真ん中・現実直視の言い方が吉、である。

・・要は上記最後の3行が言いたかっただけなのだが、、一番遠回しで面倒な言い回しをしているのはどうやら本稿のようであるw


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