カンボジアでは全くと言っていいほどテレビを見ない生活に慣れきって久しい筆者だが、今でも日本のテレビ番組で気になるものがあれば録画(を依頼)して、2〜3ヶ月に1回程度はある東京出張の間にまとめて見るようにしている。
東京出張の期間は毎回だいたい1週間前後。
いろいろ予定を詰めている関係もあり、録画番組の消化に使える時間も限られる。
したがって録画視聴する番組選びもそれなりに限定されてくるわけだが、その選にほぼ漏れる(∴選ばれない)のはカンボジア紹介系の情報番組だ。
理由は単純で、いつも自分自身がカンボジア現地でそれなりに動き回っているから、自分がカンボジアの現場でリアルに見知る情報以上に目新しい情報を摂取できる可能性が高いと思わないからだ。
それが今回、東京出張にちょうど合うタイミングで、いまや日本においてわかりやすく勉強になる教養系テレビ番組司会の第一人者(なような気がする、筆者私見)の池上彰氏が、自らカンボジア現地に出向いて取材された番組が放映される、という情報をキャッチ。
で、かなり久しぶりにカンボジア紹介系の番組を見させて頂いた(録画で)。
卒直な感想は「そうか、また(まだ)そこか・・」といったところ。
その番組は、近代史において世界に名だたる独裁者・独裁国家を25事例紹介するという2時間前後のゴールデンタイム・スペシャル番組だった。
番組の主眼である“悪い独裁”の事例として紹介される国々の多くは、やはりアフリカ諸国やスタン系諸国とならざるをえず、実際にテレビ取材に行くのは距離的(≒予算的)・衛生的・治安的・政治的、と全方位的に決済下ろすのが厳しそうなエリアが多くなる。
( “スタン系”とは、アフガニスタン、カザフスタンなど、それらの国の実情を全く知らない素人的には治安上危険な匂いを感じてしまいがちな国々を筆者がそう総称しているだけ。 特に差別的・忌避的な意味は一切含めていない。
ちなみに“スタン”とは、中央アジアから中東にかけてのペルシャ語系圏内で国や地方を示す地名接尾語。 現状、極めて平和・安全な××スタンも存在する。 ウズベキスタンなどは、街並み、etc、諸々大変美しい国らしく、筆者もぜひ行ってみたい国の1つだ。)
それら諸国に比べると、番組的に後半戦の山場を担った”ポル・ポト独裁政権”カンボジアや、堂々トリをかざった(日本の)お隣北の国あたりは、日本人の誰もが耳にした事があるくらい悪名高く危険な香りを漂わしているわりに、実はどちらも今意外と日本人が行きやすい国である。
外国人の出入・行動自由度が極めて高い“バリアフリー新興国”カンボジアは言うに及ばず、お隣北の国でも箸の上げ下げまで監視下に置かれる滞在期間中お行儀良くさえしていれば滅多な事は起こらない。
しかも両方日本から近い。 どちらも直行便はないにしても、アフリカやスタン系に行くに比べれば「ちょっとそこまで」の距離である。
この番組テーマに限って言えば、大御所を送り込む取材地としては、世界中見渡しても結局この2カ国に行き着くのは必然だ。
さらに、現国民にその独裁の是非について感想を聞き、かつ国民もそれに批判的意見も織り交ぜて答える、なんていう所業は、目下現在進行形で“悪い独裁”続行中であるお隣北の国(しかも取材中おそらく監視付き)ではとても出来る芸当ではない。
やはりこのテーマに限っていえば、番組後半戦の山場でそれなりに長い尺を担える国は、我らがカンボジアしか有り得ない。
カンボジア現地取材の放送は、2時間番組(だったと思う)の1時間10分〜30分あたり、ほぼ20分程度の尺を占めていた。
その間「経済が発展してきている昨今のカンボジア」を見せていたのは約2分。
残り約18分は「ポルポト・虐殺・地雷」だった。
(録画したのを見たので、テレビ画面に表示される経過時間をうる覚えした。)
番組構成的に、この「経済発展してきてます」的な2分をどこに持って来るか。
最後に持ってくれば「悲劇の歴史を乗り越え、今や経済も復興してきています」というトーンにもなり得る。
最初か途中に持って来て「ようやく経済復興の途に着いたように見えるカンボジアですが、また過去の悲劇の爪跡が大きく残っています」というトーンにする事も可能だろう。
で、番組的には当然、後者を選択したようだ。
その是非を問うつもりは全くない。 そもそも是非の議論には全く興味がない。
むしろこのトーンが、今でも「カンボジアのイメージ」の世間知的マジョリティをガッチリ占めているのだ、という事実を再認識させて頂いた、という意味で有意義だった。
池上彰の番組でもそう取り上げられるのだから、やはりきっとこれが日本国民のイメージするカンボジアの定位置なのだ。
東アフリカにおける経済共同体形成の中核を担うと言われるケニア共和国の首都ナイロビには近代的な高層ビルが立ち並んでいる。
が、テレビ的にケニアといえば、やはりサバンナの大草原でライオンやキリンや象に歩き回っていてもらいたいし、マサイ族には横一列に並んでピョンピョン飛び跳ねていてもらいたい。
視聴者がその対象に期待するイメージというのが漠然と、しかし歴然と存在していて、ある意味予定調和的にそれに従うのがマスを相手にするメディアの基本原則、なんだろうと思う(たぶん)。
ちなみにマサイ族がサバンナ観光客の眼前ではピョンピョン飛び跳ねつつ、客がはけた後はiPadで欧米系の音楽聞いていたり、客の忘れ物をバイクでホテルに届けたりしてしまう日常を放送した番組を以前見たが(筆者的には大ウケだったw)、まあ期待を裏切る方向性があったとしてもこの向きである。
ビジネスを主目的に現在進行形のカンボジアに張り付いていると、経済が発展してきている“今”と、これから盛り上がるに違いない“未来”しか目の前に見えない。
関与するカンボジア人の老若男女や外国人はほぼ皆、その空気を共有しているし、その空気の中で交流しているからだ。
ポルポト大虐殺の時代(だいたい35年くらい前)の後に生まれたポスト・ポルポト世代の若いカンボジア人達と共に“今”と“未来”だけ見つめて前のめりにビジネスに突っ走っている今、筆者に見えている世界はおそらくものすごく狭い。
(筆者が共に働いている)彼等若いカンボジア人達が「援助してあげるべき可哀想な国の人々」に見えた事は一度もないし、むしろ語学やITなどを人並み以上に体得して、慣れない日本的会社業務を必死に覚えながら頑張っている様を日本人の若者に見せて「彼等に勝てる自信ある?」と何度聞いた事か。
カンボジアを「悲劇の歴史を持つ可哀想な国」として光を当ててくれる人々は世界中にものすごく大勢いる。 きっと歴史も踏まえた大局高所の観点から、正しいカンボジア像を“過去”から照らし出してくれているのだろう。
だったら一方で、カンボジアの“今”と“未来”だけガン見して、「ものすごく勤勉で純粋な若者達が、ひたすら前向きに頑張れる希望に満ちあふれた国」として光を当てる少数派がいても悪くない、気がする。
自分の目の前の事だけ見て語っている、かなり狭い視界からの見解かもしれないが、ある側面から見た事実である事には間違いないし、物事はいろんな側面から見て語る人がいたほうがいい、気がする。
大局高所からの歴史的見解が多数派定説であることは当面揺るぎはしないだろうから、前のめり前向き系な少数派が多少いたところで、誰に迷惑がかかる話でもないし(たぶん)。
・・・という暑苦しい話をカンボジア起業当初からよくネタにしていたが、かれこれ6年経った今でも、筆者が変わらず少数派である事を池上彰が教えてくれた。
まあ、とはいえ6年経った今更、改めてまた暑苦しい話をしたいわけでもないけれどw